にぎわい Weblog

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渡辺元智 わが人生・・・1  「人生の勝利者たれ」

 野球が好きで好きで、私はこの道に入った。私から野球を取ったら、土木の現場で働くしかない。事実、その通りになったことがある。
渡辺元智
野球に挫折してフィールドを離れたとき、私は小松製作所(コマツ)の下請け工事現場でブルドーザーを修理し、動かしながら、酒浸り、けんかに明け暮れる日々を送った。チンピラに刃物で立ち向かいかけて、仲間に止められたことさえあった。

 第二の道も決して嫌いではなかったが、前向きに生きられなかったということは、私には野球しかなかったということなのだろう。
それだけに、かつて自分が学び、籍を置いた横浜高校の野球部のコーチに招かれたとき、地獄から呼び戻された思いだった。

 しかし、そこも地獄だった。当時の母校はバッジを見ればだれもが避けて通るというほど、ものすごく荒れていた。それでも、野球をやって生きられる喜びが、私の心の中では勝っていた。
一度、手放した経験があるだけに、野球にしがみつく私の執念はまさに「鬼」ではなかったかと思う。

放課後を迎え、胸を躍らせてフィールドに出た最初の日、いきなり野球部員に囲まれた。
「ちょっと、顔を貸せ」

 私はきたなという思いで裏山に付き合った。彼らが小さいときの私に見えた。しかし、工事現場で荒れていた私より、野球がやれるだけ彼らのほうがまだましに見えた。
横浜高校野球部 渡辺監督わが人生 vol1

「クソったれども、何やってやがんだ」
 あのとき、私が弱腰だったら、今日はなかった。

 大小さまざまな転機を経験しただけに、以来、私は野球を技術だけとは受け止めなくなった。
 
 スポーツだから勝つことが最大の目標だが、野球には一冊になるほどの細かいルールがある。ルールを熟知し、勝ちにつなげる方法は、それだけでも複雑多岐にわたる。極めるといったゴールはない、と私は考えている。

 教える立場からいうと、毎年、野球部から巣立つ部員がいる。プロ野球にスカウトされる者、大学野球に進む者、社会人野球に入る者、野球から落ちこぼれてまったく違う人生を歩んでいく者。入れ替わりに入る新人たち・・・。

そのすべてに贈る私の言葉はいつも決まっている。
「人生の勝利者たれ」
高校生の部員にとっては、野球の勝ち負けだけが人生のすべてではないという意味である。

 横浜高校のフィールドにコーチとして初めて立ち、猛者に囲まれたあの瞬間に、その言葉が私の胸に胚胎した。

 しかし、当時は自分のためだけに、その言葉はあった。猛者どものことを考える余裕など、私にはかけらもなかった。こいつらを何とかしないかぎり、俺の明日はないのだの思いで、彼らに体当たりしていくほかなかった。

なりふり構わないそのひたむきさが、思春期の彼らの琴線に触れ、一つ、こいつのいう通りに野球をやってみようという気持ちにさせたのだと思う。
だから、高校野球はフィールド外の指導を必然的に伴う。そこに甲子園大会とは別の魅力がある。
(横浜高校野球部監督)


この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の1月1日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 ( 渡辺元智 わが人生 ) 2006-01-26(木) 01:26:00 - kei - コメント 0 TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・2 高校野球の華、甲子園

横浜高校野球部 渡辺監督わが人生 vol2
 甲子園大会は高校野球の華である。春の選抜、夏の全国大会、そういう大きな目標がなかったら、高校校野球も、その指導も成り立たないだろう。選手も含めて私たちは当然のように受け止めているわけだが、指導の合間にふと気づいて感謝の念を新たにするときがある。

 私よりもっと野球を大きな目でとらえ、考えた人がいた。
最初に気づいたときの私の驚きは実に快いものであったのである。そして、戦後世代としては不遇な生い立ちを持った私が脇道にそれることなく生きてくることができたのも、甲子園が手の届くところにあったからだ。

 結果として幻想に終わったわけだが、機会があるうちは実現可能な夢だった。
甲子園に出場し、まず一勝をもぎ取り、勝ち進むうちに紫紺の優勝旗が目にちらついてくる。選手としてはそのいずれも経験できなかったが、監督としてめくるめくようなその瞬間を味わった。
重圧と栄光の板挟みになって、呼吸もできず、総身から血が失われるような思い、神にもすがりたくなるような胸苦しさ、そしてとうとう・・・。

渡辺元智
 頂点を極めて浮かれ、次の大会への備えを怠って予選で敗北し、観客席から罵声を浴び、奈落へ突き落とされていまさらながら初心を教えられる失態・・・。

 勝利の栄光だけではなく、そういう毒をも併せ持つのが私の甲子園である。だから、同じではいけない。どうしたら進化できるのか。

 練習試合、地区大会の試合、晴れの甲子園大会の試合、毎年めまぐるしく場面が変わる中で、創意工夫、実用新案、発明に匹敵するアイデアを常に求めてきた。しかし、どんなに構想しても、試合には必然以外に偶然の要素が立ちはだかってくる。「さあ、どうするんだ」と厳しく問いつめてくる。

 望ましい答えが出せたときの達成感、逆にああすべきだったと悔いにさいなまれる忸怩たる思い・・・。勝っても、負けても、そこからまた私の闘いは始まった。

 それが私の野球人生だった。最初は自分のために始め、あとは部員に教わりながら、ようやく彼らを思う気持ちのゆとりを得た。だから、私の野球人生は得たのではなく、与えられたものだと思っている。

 四十年にわたる高校野球人生を振り返るにつけ、私は高校野球の魅力の要素を具体的にエピソードでつづってみたいという衝動に駆られるようになった。心臓に病気を持ってから、その思いが急に頭を持ち上げてきた。

 しかし、私の高校野球人生は、突然、存在したわけではなかった。記するとすれば、生い立ちも含めた六十年の「わが人生」であろう。題名をつけるとすれば「いつも滑り込みセーフ」であろうか。参考にもならない内容ではあろうと思うが、くれぐれもまねないでいただきたい。
(横浜高校野球部監督)


この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の1月3日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 ( 渡辺元智 わが人生 ) 2006-01-26(木) 18:35:22 - kei - 1 コメント 0 TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・3 冒険で心の危機救う

横浜浜高校野球部 渡辺監督 わが人生 Vol3

 私の生地は足柄上郡松田町である。北に西丹沢の前衛松田山が台形ををなしてでんと構え、その麓を酒匂川が足柄平野を画して流れ、そこに東から支流の中津川が注ぐ。御殿場線、小田急線が分岐する交通の要でもあり、風光明美な土地でもあったが、恐らく私は一転を見つめるような毎日を送ったためだろう。美しい風景も幼心にはほとんど印象に残らなかった。


 日本が戦争の末期を迎えた一九四四(昭和十九)年に私は田中家に生まれた。
のちに渡辺家に養子に入って姓が変わるのだが、中学を卒業するまでの私は田中元だった。元智と名を改めたのは最近のことである。

 大陸に渡っていたという父が、どうして内地に戻っていたのか、理由はようとして知れない。兄に確かめても漠然しか分からない複雑な事情を抱えた家であった。私が生まれたのだから、当時、すでに父は内地に戻っていたことは確かである。恐らく病気でもして内地に送還されたのだろう。

渡辺 元智
 物心ついたとき、すでに両親は平塚にいて、私は母方の祖父の家で暮らしていた。だから、私は生みの親の愛情を知らずに育った。
 だが、幼友達には両親がいて、遊び果てるころには迎えにきた。母親がわが子の名前を呼ぶ声・・・・。
 自分にはないものがこの世にはあるのだということを、私はひどく傷つきながら幼心に刻みつけた。

 父が事業に奔走して、結核で倒れ、平塚の療養所の近くに移っていた。母は横須賀の進駐軍で働く身で、二男の私を顧みるゆとりがなかった。両親がこの世の人でなかったら、諦めもつくいたろう、しかし、下の弟が生まれる小学校五年生になるときまで、私は祖父母の家にほっておかれたのである。

 確かに祖父母は私をかわいがってくれた。が、何かが違う。それだけでは私の小さな心には満たされないものがあった。埋めようのないすき間に忍び込んだのが、牙を持つ凶暴性だった。私が部屋にばかり閉じこもって不遇をうじうじ嘆いているような少年だったら、私を良からぬ方向に進ませたと思う。

 しかしながら、私は凶暴性を遊びに向かわせた。水門が開いたとき一気の放流に飛び込み、泳ぎ切って満足を覚えたり、鉄道引き込み線のトロッコを走らせて飛び乗ってそう快な気分を満喫するなど、危険なことばかりに熱中した。今日、生きているのが不思議なくらいである。

 仲間の悪ガキと組んで近所の柿や養鶏所の卵を盗むのにもルールがあった。取るときは最低必要な一つ、二つにとどめ、「それ、逃げろ」と声をかけ合って退散した。外に向かって負のエネルギーを燃焼させたおかげで、私の凶暴性はついぞ牙をむかなかった。

 戦後の混乱が少し落ち着くと、野球がはやり出した。それが私の野球との出会いになった。三角のゴロべースだが、それにもきちんとしたルールがあった。遊びと草野球でルールを学んだおかげで、私の凶暴はとうとう影を潜めた。
(横浜高校野球部監督)


この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の1月4日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 ( 渡辺元智 わが人生 ) 2006-01-27(金) 23:59:00 - kei - コメント 0 TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・4 「野球」が人生の恩人

横浜浜高校野球部 渡辺監督 わが人生 Vol4
 田舎の暮らしで楽しみといえば野球と相撲しかなかった。当時のラジオは耳をスピーカーに寄せないとよく聞き取れなかったが、吉葉山の活躍に胸を躍らせたものである。しかし、私は個人の勝ち負けを競う相撲より、仲間と腕を競い、ルールに従ってみんなで勝ちにいく野球を迷わず選んだ。それは快いものだった。
私は時間を忘れ、嫌なことも忘れ、無我夢中に野球に立ち向かった。

 私たちのフィールドは稲を刈ったあとの田んぼだった。切り株が残ってやりづらかったが、それでも地面が平らにならされていて、一番やりやすいフィールドだった。田植えから収穫までは使えないので、草っぱらをフィールドにするのだが、地面が凸凹でこちらのほうがやりづらかった。

 私たちの少年時代はボールを探すことから始まり、丸いものなら何でも使った。石ころに布を巻いて使ったこともある。グローブは布製だった。野球をするだけの人数集めも苦労の種だった。監督もいない、審判もいない、野球ともいえない野球だったから、判定でもめることがあった。
渡辺 元智

全員が監督になってけんか腰で抗議し、敵味方双方が審判に変じ口角泡を飛ばして議論し、どちらも納得できないで解散してしまうこともあった。ルールの理解、守ることの大切さを、私たちは野球を通じて身に染み込まさせた。

 野球をやる条件は恵まれなかったが、それが逆に技術を向上させた。ボールがイレギュラーして捕球しそこねるたびに、こうきたらこう、だから、次はああしようと考えた。自分の考えがツボにはまったときの得意な気分はたとえようがなかった。

 親と一緒に過ごしたいなあ・・・。幼心に抱く淡い夢がかなわないために、私はやがて野球選手になりたいと思うようになった。

 時あたかも赤バットの川上哲治、青バットの大下弘、じゃじゃ馬の青田らの全盛時期だった。自分の将来を名選手に重ねて泥で真っ黒に汚れた白球を追った。その夢がなかったら、私は間違いなく横道にそれていたと思う。
 夢というものが少年時代にはいかに大切か、経験から私は覚えた。

野球は一つのボールをピッチャーが投げ、バッターが打ち返し、野手が追う。外見には当事者は二人か三人に限られ、他のプレーヤーは傍観しているように見られがちだが、決して部外者ではいられない。たった一つのボールに大勢が集中することで、仲間意識が育ち、トラブルのたびにチームの結束が強まった。

 上手下手を問題にする以前にルールに通じていないと参加できないし、守れなければ排除されてしまう。野球は世の中の仕組みを凝縮したものだと私は理解している。だから、肩を壊し、メスを入れ、手術に失敗して選手生命を断たれても、なおもまだ野球に生きようと考えられたのだと思う。
 私が野球を人生の恩人とする理由がそこにある。
(横浜高校野球部監督)


この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の1月5日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 ( 渡辺元智 わが人生 ) 2006-01-28(土) 09:12:43 - kei - コメント 0 TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・5 生きた少年期の体験

横浜浜高校野球部 渡辺監督 わが人生 Vol5
 生い立ちをもう少し詳しく話すと、私の父は兵役を解除され満州から引き揚げて、最初は祖父の家にいたらしい。しかし、祖父が後添えを迎えて新しい家族が加わったため、母方の祖父の家を頼ってきたというようなことらしかった。

 母方の祖父は御殿場線の松田駅から歩いて十分ぐらいの庶子という場所にあった。私たちは御殿場線を「ヤマ線」と呼んでいた。祖父はそのヤマ線の松田駅の駅長だった。だから、母は駅長の娘だったわけで、私は国鉄の宿舎で産声を上げたことになる。宿舎の暮らしはそれほど貧しいわけではなかったが、金持ちといえるほどでもなかった。

渡辺 元智
 私が小学校五年生になったとき、母親が家にいるようになって、ようやく平塚に引き取って貰い、花水小学校に転校し、やがて浜岳中に進むのだが、転校したとき、担任の石川保男先生がキャッチボールの相手になってくれた。昼休み、放課後はもちろん、雨の日でも廊下で相手を務めてくれた。

私が野球に一段とのめり込むうえで、石川保男先生の影響が大きかった。授業だけでなく、それ以外の時間も付きっきりで相手になってくれる先生がいる。愛情に飢えた少年にとって、そこに野球以上の意味があった。どちらがどうということではなくて、両方相まってのことだったと思う。平塚時代、それ以外はほとんど記憶に残らなかった。もちろん、野球部に在籍したが、野球のことも記憶にない。

 のちに横浜高校の野球部でさまざまな問題児を相手にするのだが、記憶にとどめたくないという中学時代を持ったことが、彼らを理解するうえでどれだけ手助けになったか知れない。

 こうした少年期の体験が、のちの部員指導の下地になった。理屈ではなく生身で体験したことだから、猛者たちの気持ちがよくわかったし、彼らを野球でまっすぐ前に向かわせられると確信できた。彼らも私のそんなにおいを敏感に察知して共感し、従う気持ちになったのだろう。

 振り返ってみれば、少年時代のいじけた気持ちが、その後の私の高校野球人生に大きく役立ったわけで、感謝したいような気持ちに変わった。しかし、それも今だからいえることで、当時の私にそんなゆとりは微塵もなかった。

 もちろん、高校野球の指導者になってすぐ、彼らの気持ちを理解するゆとりを持ったわけではない。それまでは野球を恩人と思いこんで一途に横浜高校の野球部を強くすることしか念頭になかった。彼らを鍛えて鍛えて鍛え抜くしかないという考えに凝り固まっていた。反省ばかりだが、そこにとどまっていたら、私の今日はなかったと思う。

 まだ、ヤマを二つ、三つ越えなければならないのだが、簡単に言ってしまうと甲子園で優勝するうえでの野球の恩人、人生は野球だけではないよと教えてくれた恩人との出会い、そこに至るまでの紆余曲折の結果であった。
(横浜高校野球部監督)


この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の1月6日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 ( 渡辺元智 わが人生 ) 2006-01-29(日) 05:20:00 - kei - コメント 0 TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・6 自然界の掟を基本に

 中学時代のことは野球を含めてこれという思い出を持たないのだが、自然に囲まれた小学校時代までの記憶は鮮明に脳裏に焼き付いている。自然の恵みの営みの中で自分が世の中に存在する意味、社会勉強というか、一番大事なことを身につけたからだった。
渡辺 元智

 勉強は学校でする以外に隣家のおじさんに教わりながら、それとなく社会経験を感じさせる話を聞いた。世の中を生きていくうえで学問はなくてはならないものだが、それを教わるだけでなく、学問を受け入れる素質というか、条件みたいなものを遊びの中で自然と身につけた。

孤独な少年にも付きりでキャッチボールの相手をしてくれる教師、声をかけてきた何かと面倒を見てくれる隣人がいたということである。だから、どんなに孤独を感じていても、私は心まで孤立することはなかった。だから、勉強も受け入れられたのではないかと思う。
 勉強を最初から至上命令みたいに押しつけられていたら、恐らく、私は勉強に背を向けたに違いない。

 私が今日まで四十年間野球をやってきて、痛切に感じるのは野球に対しても、生きることについても、自然界の掟が一番基本だということである。野鳥にしても、動物にしても、親は子供が自分の力で餌を取るようになるまでは、愛情を傾けて見守り、生きる方法をしっかり教える。あとは子供が自分で生きる。それが本当の社会ではないかと思う。

 私が幼いときの周囲の人間社会にも、間違いなくそれと同じ営みがあった。何らかの事情で現実に親がいない子がいれば、当然のように代わりを果たしてくれる人が間違いなくどこかにいた。

横浜浜高校野球部 渡辺監督 わが人生 Vol6
 ところが、戦後の復興が進み、文明が発達する中で、人々がその恩恵を享受するうちに、本来の社会の姿が見失われていった。当然、子供を取り巻く環境も変わってしまう。中学時代のことが記憶に残らないのは、思い出したくないという意外に、そういう環境の変化もあったろう。

 巣の中で、雛同士が餌を争ってけんかするとしても、殺すことまではしない。人間の子供が泥んこ遊びをして兄弟げんかをしたとしても、せいぜい殴り合うくらいのことで、相手を殺すところまではやらない。第一、相手を殺すほどの腕力がない。ひっかいたり、たんこぶをつくったりするぐらいが関の山である。むしろ、そういう中で覚えていくことの方が多い。
 それさえもなくなってしまったら、子供の経験には何が残るのだろうか。

 よいことばかり教えられたら、悪いことも、けんかさえも経験したことのない子供は、比較のしようがないから、結局、善悪の物差しが持てないまま終わってしまう。限度をわきまえない激情に駆られて、道具を使って相手を殺すまで突っ走ってしまう。

 現実の中学時代は紛れもなく三年間あったのだが、私の記憶の中で一瞬のもので終わってしまったのは、そろそろそんな気配が世の中を覆い始めていたためかも知れなかった。しかし、私には善悪の物差しとなる経験も夢もあった。
(横浜高校野球部監督)


この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の1月7日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 ( 渡辺元智 わが人生 ) 2006-01-30(月) 05:09:00 - kei - コメント 0 TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・7 野球に夢かけ養子に

 私の夢は野球に生きることで、目標は野球選手になることだった。夢と目標が一つでなくなったのがいつのことか分からないが、結果としてそれが私を挫折から立ち直らせてくれた。
渡辺 元智

 高校進学を目前にして、私は法政二高と迷わず決めた。当時の法政二高は豪腕柴田投手を要して全国制覇を遂げ、全盛を極めた感があった。

 野球選手になるからには強いチームを持つ学校へ進もう。こうした選択肢は基本的に今日の野球部員も変わらないと思う。私は親に法政二高に進学したいと申し出た。しかし、いともあっさりと拒絶されてしまった。越境入学などあまり無い時代である。私立は月謝が高かった。しかし、法政二高の先にプロ野球選手の姿を夢見ていた私は、あきらめられなかった。とんでもないといわんばかりの親に、必死の思いで食い下がった。

 「田中の家の経済では私立の学校へなどやれない。それだけわがままを貫くなら、母親の妹の家はまだうちよりましだから、養子に入れて貰え」

 母親の妹が嫁に入った渡辺家に、次男坊で真ん中の私を養子に出すという話は以前からくすぶっていた。実の親とようやく暮らすことができた私は、かたくなに断り続けてその日を迎えたのだが、野球を取るために養子話を受け入れるか、野球をあきらめて我が家にとどまるか、とうとう二者択一を迫られた。

 このときの私の気持ちは形容のしようがない。兄は公立高校へ進学して野球を続けていたが、次男坊で余計者の私の行く先は職業訓練所であった。「おまえのような奴は職業訓練所へ行け」親からこういわれ続けてきていたのである。
 なんでこんな家に生まれたのだろう。しかも、次男坊で・・・。

 ぎりぎりの選択で私は野球を取って、田中家を捨てた。田中元から渡辺元に名前を変えて法政二高に進学した。しかし、授業料が高く、三年間を全うできそうになかった。

横浜浜高校野球部 渡辺監督 わが人生 Vol7
 私は悩んで、野球をやっている長兄に相談した。
 「兄さん、俺は野球選手になりたいんだ。何とか高校で野球を続ける方法はないだろうか」
 「俺の友達が笹尾さんを知っている。笹尾さんは、今度、横浜高校の野球部の監督になるので、平塚の中学選手に声をかけている。授業料は公立並みだから、話してやろう」

 笹尾晃平監督は平塚の中学からこれはと思う優秀な選手に目をつけ、声をかけて横浜高校に誘っていた。私は浜岳中のチームで四番を打っていたが、法政二高に合格したと聞いて見送られていたらしい。
 「おう、来いよ」簡単に話が決まった。
 私は法政二高に進学しながら、こうしたいきさつを経て、急遽、横浜高校に入学することになった。

 ある意味では甲子園が遠のいたわけで、挫折感を少なからず伴っていたが、やらないうちにあきらめられなかった。チームは変わるが、チャンスまで失われたわけではなかった。何より野球を続けられるという喜びがはるかに勝っていた。
(横浜高校野球部監督)


この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の1月8日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 ( 渡辺元智 わが人生 ) 2006-01-31(火) 05:57:00 - kei - コメント 0 TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・8 鍛え抜く「笹尾野球」

 私はある意味では運命論者である。特に最近になってからはそうだ。
しかし、夢のない人生に運命はない。野球を続けられるかどうか、その瀬戸際に立たされたとき、運命などは信じなかった。
渡辺 元智

 夢と目標を実現するため、やれと言われたメニュー以外に、内角を打つ練習など独自の工夫を怠らなかった。だから、いきなり甲子園という高いハードルを設定した笹尾監督の激烈な練習メニューに付いていけたのだと思う。チームの力の程度を分析して、それならここまで行けるだろうという考え方が普通なのだろうが、笹尾監督は個人の資質を無視し、目標一筋に私たちをしごき抜いた。

 当時は軍隊式の鍛錬法がまだ生きていて、厳しさがむしろ歓迎された。父母の前で選手を殴っても、「ありがとうございました」と言われる時代風潮だった。殴られた回数を自慢にする選手もいたくらいである。私はその一人だったから、殴られても痛いと感じなかった。憎まれて殴られるわけではない。むしろ、目をかけられて名誉と感じた。

 鉄拳による気合い付けが暴力とされるようになったのは、時代による自我の認識の差であろう。もちろん、今の時代には通用しないことなのだが、進んで殴られにいくから少しも痛くなかった。たんこぶも出来なかった。うっかり頭をぶつけたときは我慢できないほど痛いのに、指導で殴られるときは痛くないし、たんこぶも出来ないのが不思議でならなかった。

 誤解が生じないようにいうと、鉄拳による喝は指導方法の一つとして世の中に広く受け入れられていたわけで、感情に任せての一撃だったら、私はひそかに仕返しを考えたろう。指導の一環としての鉄拳と感情にまかせての一撃は、殴られた本人ならばすぐ区別が付く。

横浜浜高校野球部 渡辺監督 わが人生 Vol8
 笹尾監督の指導は世間が求める厳しさのはるか上をいった。部員が血反吐を吐くまでグランドを走らせ、途中で休むと鉄拳で気合いを入れた。特に基本の反復には容赦がなかった。素振りを繰り返し手のひらにマメが出来ても、やめろといわなかった。マメがつぶれてバットに血がにじんでも、まだやれ、もっとやれと言い続けた。

 とにかく、強い選手を集めて他校の野球部より鍛えれば、必ず甲子園に行けるという単純にして明快な指導法だった。迷いがないだけに指導は熾烈を極めた。

 私は笹尾監督に恩義を感じていたから、通学の電車でルールブックに目を通しもしたし、練習でへとへとに疲れ切って帰ってから、同じ平塚の笹尾監督の自宅に三十分以上かけてランニングで通い、スイングの指導を受けた。

 結果として、それでも横浜高校の野球部は甲子園に出場できなかったわけだが、笹尾監督に野球に情熱を傾ける姿を見られたことが、のちに私の運命を決定づけた。そして、甲子園に出るにはこれだけやらなければならないという指針を得たことが、横浜高校野球部の運命をも変えたのである。
(横浜高校野球部監督)


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高校野球 ( 渡辺元智 わが人生 ) 2006-02-01(水) 05:57:00 - kei - コメント 0 TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・9 「師弟野球」の醍醐味

 笹尾監督が、もし甲子園を目標にしなかったら、横浜高校の野球は「この程度の選手にして、この程度の野球」で終わり、あとの私も笹尾野球を継承しなかったろう。
渡辺 元智

 高校野球の目標のハードルをどこに、どう設定するか。笹尾野球は、その点、極めて合理的だった。

 目標は甲子園である。出場するために強い選手を集め、徹底して鍛え抜く。この二つの要素がうまく合致したとき、甲子園への扉が開く。目標は甲子園と常にはっきりしていた。

 これが大事なのだ。甲子園出場が単なる合い言葉で、それにふさわしい練習が伴わなければ、いつまでも実現しない。予選に甘んじる野球と常に甲子園を見据えた野球は練習からして違う。仮に練習の延べ時間が同じだったとしても、一分一秒への打ち込み方が異なるのである。延べ時間は一分一秒の積み重ねだから、最終的には底力に大差がついてしまう。私は笹尾監督からそのことを身をもって教わった。

 もちろん、私は最初から笹尾野球を受け入れたわけではなかった。あまりの厳しい指導に、最初は「俺たちが憎いのか」と本気で反発を覚えた。当然、野球をやるために入ったのに、練習に付いていけないで、落後し、退部する者が出た。私は彼らを笹尾野球の犠牲者と見てしまっていたわけである。

 しかし、自分に体力がつき、技術の向上が感じられるようになると、練習がきつくなくなるほど、もっと上を目指そうと意欲を燃え立たせた。技術のレベルも一段と向上していた。
 誰のおかげか。笹尾監督へのうらみが感謝に変わったとき、どちらが犠牲者か、私には判断がつかなくなった。

 高校生の私の目で見ても、笹尾監督の指導にはえこひいきがなく、むしろ、個人の能力差をもう少し考えた方が合理的ではないかと思ったくらい、ハードルを下げようとしなかった。考えてみれば、甲子園野球は勝敗の極致で、チーム力が試される場所だから、個人差を重んじたら成り立たなくなってしまう。むしろ、落伍者が出て泣いたのは笹尾監督だろう。
横浜浜高校野球部 渡辺監督 わが人生 Vol9
 笹尾野球の理解が進むにつれて、私は一段と練習に身が入るようになった。監督が私を見る目が心なしか変わってきた。指導者であるからには、育つ選手の姿が何よりもの報酬なのだろう。私も笹尾監督に認められて悪い気がしなかった。横浜高校は文武両道を目指していたから、勉強の方でも優等生になろうと思って努力した。
 監督と選手の呼吸が合ってくると、何をやってもいい方に転がっていく。

 私が横浜高校に在籍した三年間で、甲子園大会の地区予選でベスト4まで勝ち残ったのが最高で、法政二高、慶応高、鎌倉学園の牙城はついに抜くことが出来なかった。しかし、三年秋の市長杯大会でとうとう優勝した。師弟野球という言葉があるが、まさしくその成果だった。私にとっては自分の喜びよりも、笹尾監督に報いられた喜びのほうが大きかった。
(横浜高校野球部監督)


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高校野球 ( 渡辺元智 わが人生 ) 2006-02-02(木) 04:16:00 - kei - コメント 0 TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・10 肩を痛め一度は断念

 笹尾監督の一番弟子になろうとしたおかげで、これが師弟野球か、教育指導の醍醐味かと選手の立場で感銘を受けた。だが、のちに自分も同じ立場についてから、高いレベルで和を実現するには犠牲を伴うという苦い思いも味わった。
渡辺 元智

 選手の時の自分の思いがのちの私の指導の支えになるのだが、しかし、そこに至るまでもうしばらく紆余曲折を歴なければならなかった。

 横浜高校を卒業する時点で、私はプロで通用するレベルではないと感じた。法政二高をちょっとのぞいても、一年上の柴田勲投手をはじめ、高校生のレベルを超越した選手が何人もいた。それでもプロから誘われるのはごく一部だった。自分がそこに割って入ろうとするのは、精神論としてはよいとしても、現実的ではなかった。
 う〜ん、だけど、もうちょっと・・・・。

 なまじお声がかかったために、野球選手への思いが断ちがたく、私は神奈川大学の野球部に入った。法学部の法学科で講義を受けながら、グラウンドで練習に明け暮れる生活が始まった。

 よっしゃ、よっしゃ、なんとかなるぞ。
あのときそういう色気を出さなかったら、当時は就職先はいくらでもあったから、私は野球を見限ってサラリーマン生活に進んでいたと思う。だから、今、落後しそうな部員にいう。
 「駄目だと思ったらすべて終わりだぞ。何とかなるという中に妙案が生まれるのだぞ」

横浜浜高校野球部 渡辺監督 わが人生 Vol10
 続けることが一番の妙案という意味である。
もちろん、振り返っていえることで、それこそ目の前が真っ暗になるようなアクシデントが私を待ち受けていた。

 入部してまもなく、外野手の私はセカンドにコンバートされた。外野と内野では投げ方がちょっと違うので、やっているうちに肩を壊してしまった。まだ、続けたい一心で、メスを入れたが、軟骨と神経が密着して取れないという。
 イチかバチかの賭に出たのだが、ものの見事に裏目に出たしまった。

 野球を断念せざるを得なくなって就職したが、納得したつもりでも気持ちに整理がつかず、飲めない酒を覚えてしまった。自分をめちゃめちゃにして忘れようとしたが、それでも野球への思いを断ち切ることはできなかった。

 肩を使わないでいるうちに治ったように錯覚して復帰を考えた。私が就職した小松製作所(コマツ)の下請け会社に社会人野球の有力チームを持つ熊谷組から出向してきた役員がいた。私の親戚に小松製作所の下請け会社の重役をしている人がいたため、拝み倒して午後から野球部のグラウンドに行ってプレーに参加できるよう道をつけた。

 「面白いから採ってみようか」
 打撃だけで正式に採用しようという話が出たが、投げてみると肩が思うように動かない。本当に断念するほかなくなって、千葉県の姉ヶ崎でブルドーザーの修理工として骨を埋める気持ちになった。しかし、すぐに野球が向こうから私を迎えにきた。今度は野球が私を見捨てなかった。
(横浜高校野球部監督)


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高校野球 ( 渡辺元智 わが人生 ) 2006-02-03(金) 04:23:00 - kei - コメント 0 TrackBacks
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