高校野球 にぎわいblog

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渡辺元智 わが人生・・・61 ハンドルに遊びあり




渡辺 元智
 さて・・・。
 心房細動、入院という不測の事態で「ひょっとしたら、野球ができなくなるかもしれない」という恐怖に襲われたとき、酒ばかり飲み、少しもお坊さんらしくない白幡憲祐師のことが私の頭に浮かんだ。

 「この瞬間は二度とない。それが一期一会だぞ。しかし、何事に打ち込むにせよハンドルの遊びが必要だ。それが私の酒だ。僧侶だからといって酒を飲むのに何らやましいところがあるものか」

 私は白幡憲祐師の開き直りとも思える境地に学び、病院のベッドで、野球をやれることのしあわせ、喜びの味を本当の意味で知り、深く噛み締めた。

 病気はショックだし、野球の邪魔だ。しかし、なってしまったからにはじたばたしてもしょうがない。病気とも一期一会、野球とも一期一会、この一瞬を大切にしよう。病人でいるときは病人になり切り、野球がやれるときがきたら存分にやらして貰おう。

 悟りのような境地にひたったとき、監督から身を引こうとした自分がバカのように思われてきて、肩から余分な力がすっと抜け落ちた。松坂のノーコンは難題などではなく、むしろ、私は解決する楽しみを与えられたのだ。

 身体能力、野球センスだけでは一流、超一流にはなれない。劇的な一球を投げる前の松坂大輔は練習が嫌いで、押しつけられるから仕方なくやるという姿勢が見え見えだった。これでは排気量ばかり大きくてハンドルを持たない自動車のようなものである。

 その松坂が練習に率先して励みだした。
 まがりなりにもハンドルが必要なことに気づいたようだ。
横浜高校野球部渡辺監督 わが人生 vol61

 私は入退院を繰り返しながら、それをチャンスととらえ、松坂のコントロール矯正に乗り出した。しかし、単なる投げ込みだけではコントロールは身につかない。真面目に根をつめるだけでは視野が狭くなるばかりで、よい考えも浮かばないということを、私の前半生が教えてくれていた。

 自動車を運転する人ならわかるだろうが、ハンドルに遊びがあるからうまく走らせることができる。人間も同じで四角四面のやり方では何をやっても苦痛に感じてしまう。
 会話でいえばジョークがちょうど「ハンドルの遊び」に当たる。

 私はまず松坂の投球から観察を始めた。とっくにやっていたことだが、このときの私には松坂を育てる楽しみがあった。あらためて見つめ直してみると、彼はスローカーブのコントロールが抜群にいい。
 「おい、松坂、スローカーブのフォームで投げてみろ」
 なりゆきから思わず口をついて出たアドバイスであった。

 やれといわれてすぐやれるようなことではなかった。だが、松坂は戸惑う様子も見せずに苦もなくいわれた通りにやってのけた。そこが松坂の非凡なところである。果たしてこれまでより格段にコントロールがよくなった。

 これまでの必死の指導を嘲笑うかのような結果だった。私は複雑な思いで松坂の投球を見守った。
(横浜高校野球部監督)

この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の3月4日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 2006-03-26(日) 04:21:00 - kei - TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・62 怪物バッテリー誕生




渡辺 元智
 高い勘定を払って酒を飲み、舞妓の踊りを楽しむのがなんで一流なんだー。かつて京都の和田屋でそういって白幡師にどやされたことを、私は何の脈略もなく思い出した。

 さてはこういうことだったのか。
 これでは何の説明にもなっていないのだが、私は松坂大輔の豹変に一流を育てるこつのようなものを感じ取った。すると、高きから低みに水が流れるようにアイデアが浮かんできた。
 私はホームベースの上にボールをそっと置いてからいった。
 「今度はこれをねらって投げろ」

 リリースポイントをできるだけホームに近いところに持ってこさせることと、低めにボールを集める指先の集中力を高めるのがねらいである。
 松坂はマウンドから「狙撃」する練習に取り組んだ。ゲーム感覚である。松坂は夢中になってボールめがけてボールを投げつづけた。もちろん、スローカーブを投げるときのピッチングフォームで・・・。

 ホームベースをねらえといっても容易なことではないというのに、的の大きさはボール一つ、当てるのは至難の業だ。まだノーコン返上途上の松坂は、最初はまぐれを除いてまったく当たらなかった。
 しかし、そこが怪物の怪物たるゆえんである。

 松坂は毎日飽きることなく黙々と練習をこなし、小さな的をねらいつづけた。しばらくすると、惜しいところにボールが集まるようになった。ホームベースのまわりに幾筋もついたボールのあとが上達ぶりを物語っていた。

 そしてついに快い瞬間が訪れた。ボールがボールを弾いてセットし直す手間がわずらわしいほどになったのだ。更に練習を続けると、ある程度はねらって当てられるようになった。

 私はすかさず命じた。
 「十球当てるまでは終わるな」

 それが簡単にできるようになると、今度は「三球連続して当ててみろ」と目標のハードルを引き上げた。私がどんどん目標を引き上げていくというのに、松坂は驚異的なスピードでクリアしていった。
横浜高校野球部渡辺監督 わが人生 vol62

 もちろん、それまでにいく間、かなりの球数を投げることになるから、スポーツジムに通わせたり、マウンテンバイクを使った練習を取り入れ、筋力のバランスを取る試みも行った。肩の状態のチェックはもちろんのことである。

 一方、捕手の小山良男にもスケールアップしてもらう必要があった。小山は決してキャッチングの下手な選手ではなかったが、ぐんぐん成長する松坂の球は並の高校生捕手レベルでは受けられないまでのレベルにすごみを増していた。

 私は小倉清一郎コーチと相談して、マウンドより前に据えたピッチングマシンから百四十キロ台の速球を発射し、まず小山の目をスピードに慣らさせた。慣れると今度は小倉コーチが至近距離からノックを浴びせた。

 小山もまた並の高校生捕手ではなかった。練習の成果はめざましいほど現れて、ついにここに呼吸もぴったりの怪物バッテリーが誕生した。
(横浜高校野球部監督)

この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の3月5日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 2006-03-27(月) 09:35:05 - kei - TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・63 ワン・フォア・オール




渡辺 元智
 松坂大輔たちが三年生になった1998年、横浜高校はわれながら恐ろしいほど強いチームに育っていた。課題であった制球力を克服した松坂の速球とカーブは一段と効果を高め、小山良男の好リードがさらにそれを裏打ちした。

 打撃陣も好調であった。松坂、後藤武敏、小池正晃、小山という中心選手は高アベレージを維持し、二割、一割しか打っていないバッターもチャンスできちんと結果を出した。

 「ワン・フォア・オール」
 あのY校戦の悪夢の一球で三年生の夢を絶って以来、松坂が座右の銘にした言葉だというが、それがいつのまにか横浜高校のチームカラーになっていた。全員がチームバッティングを心がけた。私は相変わらず入退院を繰り返しながら、小倉清一郎コーチの強いチームを育てる指導力に舌を巻いた。

 病み上がりの私はただ黙ってベンチで監督然と構えているだけでよかった。これがチーム作りの理想だと思った。ただし、私がそれを一つの到達点として確かに感じ取るには、最終試験をパスしなければならなかった。

 選手たちが「ワン・フォア・オール」に徹するにつれ、逆に私は選手一人一人を大切にする気持ちが強くなった。妙といえば妙かもしれないが、理屈に叶っていると思う。全員野球、ノーサイン野球ができるようになったら、監督の仕事は選手個々のことに配慮する意外にすることがなくなってしまうからである。

 私は優勝の二文字を一度も口には出さないで、袴塚健次と斎藤弘樹の二年生控え投手にさりげなく声をかけた。
 「甲子園では必ずおまえたちが投げることもある。そのつもりでいてくれ」

 来年のために経験を積ませる意味もあるが、優勝するために松坂を酷使しないと、私は密かに心に決めていたからである。優勝候補の筆頭にあげられているのに、優勝したいというような言辞を弄すれば選手にはかえってプレッシャーになり、前年夏の県大会敗退に責任を感じている松坂は「腕が折れても」という思いになってしまうだろう。
横浜高校野球部渡辺監督 わが人生 vol63

 選抜優勝を受けて春夏連覇を賭けて臨んだ甲子園、横浜高校にPL学園が立ちはだかった。果たして松坂は延長十七回二百五十球を一人で投げ抜いて、チームを勝利に導いた。

 恒例の勝利監督インタビューを受ける私の脇で、松坂が言った。
 「明日はもう投げません」

 普通なら「腕が折れてでも投げます」と受け答えするところである。もとより私は投げさせるつもりはなかったが、松坂が自分で平然といったことに唖然とさせられた。しかし、すぐに松坂の確かな人間的成長の証と理解した。

 自分以外にも袴塚と斎藤がいる、万全でない状態で投げるより、彼らに試合を委ねたほうがチームのためになるだろう。松坂がそう考えていったとしたら、彼の座右の銘は本物だったことになる。

 「ぼちぼち、お仕事しませんか」
 同時に私は天の声を聞いたような気持ちにさせられた。(横浜高校野球部監督)

この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の3月6日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 2006-03-28(火) 04:24:00 - kei - TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・64 敗軍の将となる覚悟




渡辺 元智
 次の試合は優勝に王手のかかる大事な準決勝で、しかも相手は前日の関大一高戦で好投手久保康友に十三安打を浴びせた強打の明徳義塾戦ーエース松坂を立てて負けたのなら、誰もが納得してくれるだろう。しかし、いかに松坂本人が「なげない」と明言したからとはいえ、勝負どころで控え投手を先発させたら「愚将」の譏を免れない。

 松坂に「いけるところまでいってくれ」といえば、彼は文句を言わずに投げる男だ。松坂は潰れるかもしれないが、私は非難の矢面に立たないですむ。どちらか一つに決断するのが、私に与えられた仕事になった。
 ーこの選手を潰してはいけない。
 私は選手のためを第一に考えた。将来ある松坂だからではない。だれであっても、そういう気持ちになったと思う。

 どうせこっちはY校戦で地獄をのぞいたのだ。愚将とでも何とでもいえ。命まで取られるわけじゃない。
 そんな感じに私は開き直った。負ける覚悟をした。こんなことは初めてだ。負けるのに覚悟がいるのかと問われるかもしれないが、常勝軍団を率いる監督としてたった一つの敗戦が恐ろしかった。勝つのが義務なのである。敗軍の将となる覚悟がついたとき、ありとあらゆる呪縛から解き放たれて実に新鮮な心境になれた。 

 私は控えで二年生投手の袴塚にいった。
 「袴塚、頼むぞ」
 選抜で甲子園のマウンドを経験したとはいえ、夏の全国大会は雰囲気からして違う。超満員に膨れあがったスタンドの熱気は圧倒的だ。あと二つ勝てば優勝というプレッシャーの大きさが平常心を吹き飛ばそうとする。

 果たして袴塚は四回につかまった。ヒット三本で先取点を奪われて動揺したのか、五回先頭の藤本敏也にレフトスタンドに運ばれ、谷口和弥にもツーランを浴びた。
 「斉藤、行け」
 スタンドの雰囲気に無言の抗議を感じ取ったが、こうすることが俺の信念とひたすらいい聞かせて、三番手の斉藤弘樹をリリーフに送った。斉藤も小刻みに点を奪われて、八回表の時点で〇対六とやられ放題の展開になった。しかし、いい加減なプレーは一つもなかった。スタンドからヤジが飛ばなかったのは、選手たちの真剣さが伝わったからだろう。
横浜高校野球部渡辺監督 わが人生 vol64

 私は準決勝にふさわしい試合の内容に満足して選手に声をかけた。
 「おまえたち、あとは楽しんでやれ」
 私は第三者的な立場にいて、試合を楽しんでいた。素晴らしいチームの明徳義塾を讃え、横浜高校の選手の健闘に感謝した。こういう立場を演劇会では「離見の見」というのだそうだ。舞台の役者は自分の演技を観ることはできない。だから、常に観客席にもう一人の自分を置いて演技をチェックするのだという。

 負けの責任は俺が取る。おまえたちはよく戦った。あとは思い切り楽しんでこい。それが、三年間、苦労を共にしてきた選手たちにかけてやれる唯一の言葉であった。
(横浜高校野球部監督)

この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の3月7日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 2006-03-29(水) 04:34:00 - kei - TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・65 松坂、奇跡の逆転呼ぶ




渡辺 元智
 楽しんでやれ・・・。
 勝利がすべてに優先する甲子園の舞台で、そういう心境になれた。勝利至上主義だった「渡辺元」に決別できた。しかし、やはり勝利は至上である。勝つことだけがすべてではないとわかったからこそ、「それでもなお」という。勝利の頂点に立つことが究極でなくなってしまったら、汗にまみれ、泥を浴びて切磋琢磨する課程がなおざりになってしまう。優勝は名誉というより、だれもが認める目標なのだ。

 さて、ところで・・・。
 選手たちの追い詰められたような表情に生気が蘇ったのを見て、私は松坂大輔を出すしかないと思った。最高のメンバーで試合を締め括り、この年の甲子園を総決算しようとした。

 「松坂、投げられるか」
 「投げられます」
 松坂がきっとして一点の曇りもない表情で答えた。

 味方の攻撃が始まる前、ブルペンに出て肩ならしを始めた松坂を見て、「待ちに待った」とばかりにスタンドが沸いた。演出したわけではないが、効果は抜群だった。スタンドは納得し、熱狂した。判管びいきのスタンドの声援に乗せられて「甲子園の魔物」が目を覚まし、あと一歩で決勝進出と確信した明徳義塾にとりついた。

 松坂はブルペンの投球の段階から凄みがあった。
 ズドン、ズドンッ!
 ミットにボールが突き刺さる音が聞こえたのだろうか、これまで横浜打線につけ入る隙を与えなかった寺本投手、野手たちは明らかに動揺しているようすだった。

 ー松坂が来る!
 甲子園の心理ドラマがこうして幕を開けた。

 八回裏、先頭の加藤重之の平凡なショートゴロが相手野手のエラーを誘い、スタンドがどよめいた。松本勉と後藤武敏が連続してヒットを放ち、一点を返してなおも無死一塁二塁のチャンス、次のバッターは四番松坂ー彼が寺本投手の球をセンター前にきれいに弾き返して走者が生還すると、スタンド全体が異様に盛り上がりを見せ、寺本投手は控えの高橋投手にマウンドを譲った。暴投で一点が入ったあと、代打の柴武志にタイムリーが出て、横浜高校は二点差に迫った。
横浜高校野球部渡辺監督 わが人生 vol65

 九回表、松坂が試合のマウンドに立ったとたん、どちらがリードするチームかわからないムードがあたりを支配した。松坂は鬼神のごとき気迫で明徳打線のクリーンアップをわずか十五球で仕留め、不敵な笑みさえ浮かべてベンチに帰ってきた。

 二点差の逆転は呆気ないものだった。サヨナラとなった柴のセンター前ヒットは、腕をいっぱいに伸ばしたセカンドのグラブをかすめて飛んでいったが、相手野手も金縛りに遭っていたようだ。外野の芝にフライが落ちた瞬間、選手たちは優勝が決まったかのように躍り上がってベンチを飛び出した。奇跡の大逆転勝利で横浜高校の校歌を私はまた甲子園で聴くことになった。
(横浜高校野球部監督)
この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の3月8日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 2006-03-30(木) 04:45:00 - kei - TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・66 夫婦忠臣蔵も大団円




渡辺 元智
 勝っても負けても甲子園には格別なものがある。勝ちにいけば負け、負ける覚悟で臨めば勝つ。実に不思議な世界で、まるで予測がつかない。しかし、忘れてはならないものがある。
 対戦するチーム、選手の存在である。
 相手なくして戦いはない。お陰さまで試合が成り立つ。試合の前提として正しいマナーとフェアプレーが求められる。甲子園は高校野球の最高の舞台だから、出場するからにはそれにふさわしい品格が求められる。高野連が野球部の不祥事に厳罰を科すのは、高い品格を求めるからだろう。監督も選手もそうした背後の意図を理解すべきだ。少なくとも私はそのように理解している。したがって、勝者は敗者に惻隠の情を持つ必要があるし、敗者は勝者を讃え、捲土重来を期する。人間的な錬磨と成長を含めて戦いは甲子園があるかぎりつづく。

 一九九八年、横浜高校は甲子園春夏連覇につづいて、神奈川国体でも優勝、これに前年の神宮大会初出場初優勝を加えて「四冠」を達成したわけだが、私は栄光より挫折、成功より失敗、勝利よりも敗戦に、より大きな価値を見出した。

 今、私の頭にあるのは、次の甲子園優勝である。過去の四冠、破竹の四十四連勝より、好投手涌井秀章を擁しながら五年ぶりの優勝を果たせなかった悔しさである。選手にとっては三年間の高校野球人生、その時々の彼らの夢を叶えさせるためにも、常勝軍団を維持する責務がある。四十年あまり監督をつづけてきた私にとっても、小倉清一郎部長にとっても、常勝軍団の継続はいまだに見果てぬ夢で、常に一から出直して甲子園を目指し、戦いはいつまでもつづく。
横浜高校野球部渡辺監督 わが人生 vol66
 
 ただし、過去の実績に恩恵がなかったわけではない。甲子園優勝の何よりもの褒美は、渡辺元智の名が少しは世間に知られ、認められたことで田中、渡辺両家から受けた勘当が解け、妻の紀子にも光が当たって所在の知れなかった生き別れの妹と弟が名乗り出たことであった。
 「やっとわたしにも春がきた」
 決して心のうちを明かさなかった妻がいった。

 ここまでよくついてきてくれたと思う。成長した二人の娘は結婚し、孫をもうけ、協力して合宿所の賄いを受け持ち、母親に取って代わった。紀子は手伝う立場になれたお陰でようやく自由を得、離れ離れだった妹、弟とそろって墓参りに出かけるなど、失われた時間を取り戻し遅れた春を満喫している。

 卒業した選手の母親や奥さんも紀子を訪ね、「監督はいないでいい、奥さんのところへ来たのだから」といっては、妻を旅行に、登山に、ゴルフにと誘い出していく。本来なら私がやらなければならない穴埋めを、みんながやってくれているのだ。いまさら女房孝行もないだけに、除け者にされればされるほど逆に私は嬉しくなってしまう。
 
 「むかしの子どもたちは、こうやっていろんなものを食べた」
 賑やかな輪の中心で紀子も楽しそうだ。結果が伴わなければどうなったかわからない夫婦の忠臣蔵も、こうしてめでたく大団円を迎えた。
(横浜高校野球部監督)

この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の3月9日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 2006-03-31(金) 04:56:00 - kei - TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・67 同情より親身の支援




渡辺 元智
 高校野球四冠達成で夫婦はみずからの境遇に仇討ち本懐を遂げた。私は長く背負ってきた大きな荷物を降ろした心境だが、まだまだ過去の「負債」が精算できたわけではない。現役の身でありながら指導教本まがいの著書を上梓し、今度は新聞という公器に「わが人生」を執筆するのに対し、かつての私に殴る蹴る罵るの指導を受けた選手は、恐らく「何を偉そうに」という思いでいるに違いない。だから、連絡のつかない彼らへの「詫び状」のつもりで、あえて自分の恥部をさらけ出した。

 四十年の野球人生を振り返ってみれば、私自身も、渡辺野球も、最初とはまるで正反対の場所にいた。出だしのころの私は野球一筋、無我夢中でまわりを思うゆとりがなく、「強い選手を集め、ひたすら厳しく鍛える」笹尾野球継承の域を出なかった。

 ただし、いいわけが許されるなら、前半期の私にもたった一つの取り柄があったように思う。めぐまれた生い立ちを持ち、しあわせな境遇にある人なら気の毒で目を背けてしまいそうな物事を自分のことのように受けとめ、現実をまっすぐに見つめ、選手と二人三脚で真剣に取り組んだことである。

 とにかく食えるようにならなきゃいけない。気の毒ではすまされない。

 小さいときから私は言葉だけの同情が嫌いだった。私の境遇を気の毒に思った大人から声をかけられたとき、「うるさいっ」と怒鳴って反発したことさえあった。私に必要だったのは実際に勉強を見てくれた隣家のおじさん、キャッチボールの相手になってくれた石川保男先生のような人の存在だった。花より団子、同情より世話であった。

 横浜高校は両親の国籍が異なる人の多い横須賀、華僑が住む中華街、在日韓国・朝鮮人が集まる鶴見、川崎を周辺地域に持つことから、野球部に国籍の異なる選手、事情のある境遇を抱えた選手が常に在籍した。
 当然、彼らは他人に口に出していえない重荷を心に背負っていた。

 国籍も家庭環境も一切不問のプロ野球の世界に進んだ選手はさておき、かつて遊郭だった町を住所とするだけで就職できない選手がいた。どこを受けても面接で落とされてしまう。
横浜高校野球部渡辺監督 わが人生 vol67
 当時の入社試験は筆記はなく面接だけだった。

 変だなと思って彼に原因を質すと、遊郭があった町に家があるという理由だけで、過去に姉さんの縁談が破談になったことがあるという。
 「よし、俺が一緒に行ってかけ合ってやる」

 私は彼が受ける市内の有名ホテルのコック長に会って頭を下げた。
 「彼は練習熱心で、仲間からも好かれ、性格的にも見るべきものがあります。どうかお願いします」こうして彼の就職がようやく決まった。

 日本国籍の選手でさえこのありさまだったから、国籍の異なる選手達の卒業後は困難を極めた。前述したケースはほんの一例で、彼らの就職、卒業後の人生にまでかかわることによって、私の野球人生の番外編が始まった。
(横浜高校野球部監督)

この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の3月10日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 2006-04-01(土) 05:12:00 - kei - TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・68




渡辺 元智
 ある時期まで強い選手を県外から連れてきて家に置いて叩くのが私の方針だったが、卒業生が増えるにつれて就職に絡む難題が多くなり、彼らの進路を切り開く必要性に迫られ、「問題児を家に置こう」と決意した。

 野球が強いだけじゃ外の世界では通用しないぞ。受け入れた以上は何とかしてやろうじゃないか。

 横須賀で番長を張っていた山際と松岡の成功が下敷きにあったから、その気になれたのだと思う。二人のうち松岡は両親の国籍が異なっていた。彼らとは年齢差がなかったし、共通する気質があったから、チームが本当に一つにまとまった。私の指導が技術的な向上より人間の錬磨に傾いたのは、そのころからだったように思う。
 それが渡辺野球の最初の転機だった。

 生活面の指導から始めて愛甲、安西を引き取ったあたりから「渡辺病院」と呼ばれたといえば聞こえはよいが、選手の世話の一切は妻の紀子がしたのだから、最初のうちの私はあまり役立っているとはいえなかった。

 あるとき、選手の姉が在日韓国人であるのを理由に恋人との仲を裂かれて焼身自殺を遂げた。民族問題に疎かった私には衝撃的な出来事だった。

 振り返ってみれば、似たようなことがいくつもあった。そのうちの一つにある在日元選手の凄絶な死がある。兄弟で前後して野球部に入り、弟はエースとして活躍したが、兄も素質があったので、私は大学に進学して野球をつづけるように彼を指導した。

 大学へ進学した兄が、ある日、私を訪ねてきた。「監督、すみません、せっかく進めていただいたのに、大学を辞めることにしました」
 「どうしたんだ」
 「実はぼくは在日韓国人なんです」

 母親は日本人なのだが、韓国人の父親が家族を残し、一人で国に帰ってしまったのだという。
 「母親の面倒を見、弟に野球をつづけさせるために、働くことにしました」
横浜高校野球部渡辺監督 わが人生 vol68

 働くといってもまだ民族問題が表面化していない時期のことで、企業のほとんどが外国籍の人間の採用を拒否していた。結局、私はどうしてやることもできなかった。彼は群馬県まで流れてパチンコ屋に就職し、横浜と群馬県を毎日往復、三時間に満たない睡眠で身を粉のようにして稼ぎ、わずか数年で家を建て焼肉店を開いたかと思うと、まもなく過労で呆気なく世を去った。

 衝撃に衝撃が重なって、私はとある決意を余儀なくされた。
 民族問題を理解しないといかんぞ。
 ここで初めて渡辺病院と呼ばれるに値する私の活動が始まった。

 夏の甲子園大会が終わると、韓国では九月から大統領杯ほか五つの大会が始まる。在日同胞選手でチームを編成して出場できるシステムになっていたので、私は在日同胞の選手を連れて行き、祖国と交流を深める機会にしようと考えた。しかし、ある選手は北朝鮮籍でビザが取れず、韓国籍の在日選手は拒否した。
(横浜高校野球部監督)

この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の3月11日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
この記事の一部または全部の複製を禁止します。
高校野球 2006-04-02(日) 04:30:00 - kei - TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・69 今後の人生は恩返し




渡辺 元智
 在日一世の親は熱心に勧めるのだが、二世の子の心は別にあって、「俺は日本人だ、嫌だ」という。私はいきなりカベにぶつかった。私は嫌がる選手の説得に苦労しながら、どうにか在日同胞チームを編成し、九月に始まるソウル市長杯大会出場にこぎ着けた。

 そのソウル市長杯大会で嫌がっていた二人の選手が大活躍し、たまたま優勝してしまった。ソウル市長杯を手にしたとたん、二人は喜びを爆発させ、胸を張って祖国に愛着を持つようになった。こうしたことがきっかけになって、私は在日同胞選手の両親からいろいろと相談を持ちかけられるようになった。

 韓国の大会出場と前後するかたちで、戦前は日本人学校だったという釜山高校で学んだ私設応援団のある人の紹介によって、年に一度くらいの頻度で同行野球部の指導にいくことになった。私が指導を始めた当時、釜山高校の校長は共金術先生で、日本の帝国大学を出ていたから日本語が達者なはずだった。しかし、行けども行けども通訳を介してしか私と話さなかった。

 ところが、ある年、釜山高校が韓国の全国大会で優勝した。
 「渡辺監督に指導を受けたお陰だ。優勝祝賀会をやるから、ぜひ、来てくれ」

 円の価値がウォンを大きく上回った時代で、私を招待するのは大変だったはずである。喜んで渡韓すると、共校長が通訳抜きで私に話しかけてきた。

 「何十年ぶりかで日本語を使います」
 その言葉が共金術校長の気持ちの変化を如実に語っていた。

 こんなにも日本を憎んでいたのか、と私は驚きを持って日韓交流の溝の深さを痛感した。同時にどうすれば溝が埋まるかも理解した。最初はこちらが渡韓するだけだったが、十年ほど前、向こうからも選手が来るようになって、横浜高校と釜山高校野球部の交流が本格的に始まった。

 こうした経験も私にはこやしになった。
 それも横浜高校に在日や両親の国籍が異なる生徒、架橋の選手が多く集まったお陰である。
横浜高校野球部渡辺監督 わが人生 vol69

 藤木企業グループの藤木幸夫会長、横浜OB会長だった故白幡憲祐師をはじめ、限られた恩人にしか触れてこなかったが、基本的に影響を受けたのはこのお二人であるとしてもほかにもいっぱいいる。野球部の主治医を務めてくださっている横浜南共済病院院長の山田勝久先生は、私が夜学に通った当時の体育衛生の教授で、そのご縁からお招きし、今では選手の身体管理に欠かせない存在である。

関東学院大学野球部の工藤房雄監督には顔を合わせるたびに「ナベさん、頑張れよ」と励まされた。南部市場星浜産業の泉国明さん、東横商船の飯泉牧太郎さん、笹田組の笹田照雄さんには今もお世話になりっ放しだ。神奈川県高野連の石川敬理事長、先輩のミッキー安川さん、先だって他界した黒土将文前学園長、黒土創現理事長の支えも大きかった。恩人の名はいちいち挙げきれない。

 今はただ大勢の恩人に感謝あるのみ・・・。

 しかし、私はこれまでに受けた恩義は選手、部員の指導を通じて社会に返すものだと心に決めている。
(横浜高校野球部監督)

この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の3月12日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 2006-04-03(月) 04:51:00 - kei - TrackBacks

渡辺元智 わが人生・・・最終回 野球に”教育の原点”




渡辺 元智
 四十年を超そうかという野球人生の途中で、時代が変わり、選手の生い立ちも気質も変わってきた。初志貫徹が俺の生きざまとばかりに突っ走っていたら、間違いなく私は世の中から排斥されていたと思う。

 そもそも指導と暴力の違いはなんであろうか。

 選手に対する的確な洞察と深い愛情が根底にあるかないかの違いだろう。愛情がなければ言葉も暴力になるということにも私は気づいた。

野球がスポーツであるからには勝利至上主義が絶対的なものであることに変わりはないのだが、いつのころからか、私はレギュラー以外の選手の姿にも目が向くようになった。

 野球が下手くそで横浜高校の練習についてこられない部員がいた。
 「おまえなんかやめろ」
 選手にいわれて私のところへ訴えてきた。
 「監督、僕、ついていけません」
 私自身が野球の落ちこぼれだから、彼に本心を確かめると果たしていった。
 「選手にはなれないけどつづけたい」
 「それだけ聞けばよい。信頼してついてきてくれ」
 つづけられたことで、親も子も喜んだ。

 故障して試合に出られなくなった選手が合宿所で一生懸命手伝いながら、「僕は三年間を全うしたい。少しも苦にならない」と胸を張っていう。
 私は同情するのが苦手だから見てみないふりをするが、こういう部員こそ人生の勝利者になると思った。だから、教師としての立場から選手にいう。
 「野球だけじゃ駄目だぞ。高校生としてきちんとしないと認めないぞ」

 あの監督が仏のようになるなんて・・・。

こんな感想をよく聞かされるが、いろんな経験が私の心を耕し、野球の外の世界で見守ってくれる大勢の恩人が、渡辺元智という人間に磨きをかけてくれたお陰である。
 栄光も体験したが、それ以上に苦労を積み重ねた。だから、恩人達にいわれた言葉の重みがわかった。苦しみに没入する中で得るものがある。そこに学校教育に必須の原点がある。
横浜高校野球部渡辺監督 わが人生 vol70 最終回

 いつしかそれを忘れた世の中になって、同等に振る舞うのが尊重、可愛がることを愛情と履き違えて、教師も親も生徒を叱ることをしなくなった。熱いときに鍛えられなかった鉄は鋼にはなれない。鋼になっていないのに世の中に出て鋼として扱われたら、彼らは社会からドロップアウトしてしまうだろう。

 世の中には上下関係はもとより、勝ち負け、優勝劣敗の仕組みが張り巡らされている。野球にもそれに近い要素がふんだんにある。高校野球は真剣勝負の場だが、世の中からすればモラトリアム世界だ。失敗しても本番がある。鉄拳制裁をしないでも鍛え方はいくらでもある。野球をはじめスポーツの場がそうした本来の教育をする最後の砦になってしまったようだ。

 「人生の勝利者たれ」

 この言葉は栄光に輝いた選手よりも、むしろ、挫折を経験し、失敗からより多くの実りを得た部員のためにある。
(横浜高校野球部監督)

この記事は、神奈川新聞に連載されている 渡辺元智 わが人生の3月13日号を神奈川新聞社の許可を得て転載しています。
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高校野球 2006-04-04(火) 05:04:00 - kei - TrackBacks
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